胸の内で響くメロディ サイレン 警告 雨の跡

あの頃は良かったなんて言いたくはなかったのにな

列車

列車


ふ、っとしたときに蘇るこのメロディと言葉にずんっと自分が沈まされる。

窒息しそうになる息苦しさ。


いつだって今が一番だ、って言い放ちがちなのはそうであって欲しいとおもっているからで、それはなぜかというと私が懐古主義傾向なところがあるからだ。

本当は、今が一番だなんておもってない。私は永遠に過去の私に勝つことなんてできない。永遠に、退化して行くだけだ。

その事実に直面した時、消えたくなる。すっとこの世の中から存在を消したくなる。しにたい、とはまた違って、逃亡したくなる。すべてを捨ててもぬけの殻になりたくなる。探さないでください、なんて陳腐な書き置きをしてもしなくてもどっちでもいい、後先考えずに消えたい。社会的に自分を抹殺したい。

消えたい、に留まっていられるのはまだよくて、もっと生に対してどうでもよくなってしまったときは、しにたくなる。すべてがどうでもよくなって、無頓着になって、生きるのめんどくさい楽しくないって感情に着地した時は、しにたくなる。

その考えにとらわれているときは、他の何もかもがどうでもよくなってるから、実行に移した後のことなんて何も考えない。家族のこと、友達のこと、仕事のこと、趣味のこと、何もかも。何か一つでも自分の中に残っていれば、そのときそんな考えにはとらわれない。

私の しにたい はけして、承認欲求じゃない。もうすべてに対する頓着がない、ということ。なにもない。なにもなにもなにもない。なんにもない。

この世の中に自分を引き止める要素がなにもない。

辛い悲しい淋しい痛い、そういった感情じゃない。「なにもない」、まっさらで真っ白な世界に身をおいた瞬間のできごと。


けれどもそれを実行しないのは、なにもなにもなくなってそんな考えに至った後に、まだ自分を引き止める要素があることを思い出してしまうからだ。理性ってそういうこと?

それは家族とか友達とか仕事とか趣味とか。その一瞬は辛いことよりも楽しいことだとか使命感が勝って、生きなきゃなぁって思い直す。

なにか、そういった私を引き止める要素がある以上はいなくならないよ。大丈夫。私が自ら死を選択するときは、しあわせが過ぎるときだって決めているし。

そしてそう決断した以上は、そこに向けての準備をした上で、って決めてるから。そんな面倒な過程を踏むって考えたら、そう簡単には踏み切れないでしょう。

とかなんとか言っているけれど、そういう強い衝動を目の前にしたとき、すべての条件だとか美学だとか決まりだとか何もかもは意味をなさなくなるんだろうけど。


台風はわたしに悲しみをつれてきた。

土砂災害はまだ起こっていないけれど、ずっと胸の内でサイレンがなっている。崩壊寸前なのに、涙をうまく誘導してあげることができない。

泣きたいのに泣けない。

くるしい。