夢のはなし
クソ男に振られた。
クソ男だとはわかっていた。感情の起伏が激しく、雨が降るだけで怒り出す。髪がセットできないといって暴れ出す。自分の思い通りにならないことが非常に苦痛に感じ、それを私の前で留めることができなくなっていった。
それは、緊張感の漂う恋する相手ではなく、心許せる甘えられる相手に変わったということで、「恋」から「愛」に変わったということだった。
クソ男は、私と付き合っていながら他の女と関係を持った。そしてそれを私のせいにして、自白した。苦しかった。しかし、自分に理由がある以上受け入れるしかなかった。
クソ男はそうやって度々、私のせいにして怒ったりよくわからない行動に出た。それを私は真摯に受け止め、せめて信頼してもらえるようにと誠実に付き合い続けた。自分を押し殺して、誠実に付き合いすぎたのかもしれない。
クソ男だった。でも、そんなクソ男のことが好きだった。はにかんだ笑顔はかわいかったし、二人だけの共通語が増えていくのも嬉しかった。クソ男と過ごしている時間は、とても心地よかった。ぬるま湯につかっていたかのようだった。
けれども、ぬるま湯は次第に冷めていくものなのだ。
クソ男は浮気をした。否、本気だった。ただ奴は、稚拙だった。私は異変に気が付いた。
一緒にいる時間は長いのに、隣に私がいるのに、「好きな人」にlineの返信をする。私が一緒の空間にいるのに、愛の言葉をささやき合う。私と一緒にいない日には、長時間電話をする。
禁断の手を使った。携帯電話のロックを外した。パスコードははっきりとはわかっていなかったが、当たった。心臓がドクドクドクと波打っていた。もうこの瞬間には終わっていたのだろう。
非通知設定にされたそのアカウントは「*」ひらがな一文字だった。私にばれないようにそんなことをしてまで。トークルームでは最近私に送ってこないようなテンションでのやり取りが繰り広げられていた。正直、罪悪感とか悲しみとか驚きとか諦めとか納得とかいろんな感情が心臓の音と共に私の中を駆け巡って、覚えていない。
ただ、その中にはかつて私に使われていた愛の言葉があった。私が、特別であると、思っていたあの頃に送られたことば。私にしか生涯で使わないであろう、そんなことまで匂わしながら言っていた言葉。
そう、こいつは正真正銘、根っからのクソ男だった。さすがに自分が全面的に悪いと認めたが、それでもクソには変わりない。多分過去の恋愛について語りたがらなかったのは、こういったことを繰り返してきたからなんだろうな、とぼんやり思った。
ずっと、たくさんの時間を共有していたのに、ずっと騙されていた。
でもそんなクソ男がすきだった。
わたしはただ淋しいだけのバカ女だった。
でもわたしは、「都合のいい女」として搾取され続けることには耐えられなかった。そのくらいのプライドは持ち併せていた。
だから、すぐに別れを切り出した。わたしは泣いていた。最後は奴も泣いていた。その涙が本物だと思いたい。でも、奴は今「*」と一緒にキャッキャウフフしているのだろう。クソ男が。
--どうか幸せになってください。どうか、自分の難を改めてください。どうか、「*」が辛い目にあわないよう。私だけで十分です。どうか。
たぶんいづれ全てが終わるその日にはあなたもわたしも誰もいないから
どうしようもなくなりたい感情がコントロールVなぞきかないくらい
悲しさ苦しさすべて包んで隠して忘れて のこりかす
1・2・3 始まる音と1・2・3 終わりは共に現れては消え
興味と好意の隙間に落ちた 見える景色は青の色
胸の内で響くメロディ サイレン 警告 雨の跡
あの頃は良かったなんて言いたくはなかったのにな
ふ、っとしたときに蘇るこのメロディと言葉にずんっと自分が沈まされる。
窒息しそうになる息苦しさ。
いつだって今が一番だ、って言い放ちがちなのはそうであって欲しいとおもっているからで、それはなぜかというと私が懐古主義傾向なところがあるからだ。
本当は、今が一番だなんておもってない。私は永遠に過去の私に勝つことなんてできない。永遠に、退化して行くだけだ。
その事実に直面した時、消えたくなる。すっとこの世の中から存在を消したくなる。しにたい、とはまた違って、逃亡したくなる。すべてを捨ててもぬけの殻になりたくなる。探さないでください、なんて陳腐な書き置きをしてもしなくてもどっちでもいい、後先考えずに消えたい。社会的に自分を抹殺したい。
消えたい、に留まっていられるのはまだよくて、もっと生に対してどうでもよくなってしまったときは、しにたくなる。すべてがどうでもよくなって、無頓着になって、生きるのめんどくさい楽しくないって感情に着地した時は、しにたくなる。
その考えにとらわれているときは、他の何もかもがどうでもよくなってるから、実行に移した後のことなんて何も考えない。家族のこと、友達のこと、仕事のこと、趣味のこと、何もかも。何か一つでも自分の中に残っていれば、そのときそんな考えにはとらわれない。
私の しにたい はけして、承認欲求じゃない。もうすべてに対する頓着がない、ということ。なにもない。なにもなにもなにもない。なんにもない。
この世の中に自分を引き止める要素がなにもない。
辛い悲しい淋しい痛い、そういった感情じゃない。「なにもない」、まっさらで真っ白な世界に身をおいた瞬間のできごと。
けれどもそれを実行しないのは、なにもなにもなくなってそんな考えに至った後に、まだ自分を引き止める要素があることを思い出してしまうからだ。理性ってそういうこと?
それは家族とか友達とか仕事とか趣味とか。その一瞬は辛いことよりも楽しいことだとか使命感が勝って、生きなきゃなぁって思い直す。
なにか、そういった私を引き止める要素がある以上はいなくならないよ。大丈夫。私が自ら死を選択するときは、しあわせが過ぎるときだって決めているし。
そしてそう決断した以上は、そこに向けての準備をした上で、って決めてるから。そんな面倒な過程を踏むって考えたら、そう簡単には踏み切れないでしょう。
とかなんとか言っているけれど、そういう強い衝動を目の前にしたとき、すべての条件だとか美学だとか決まりだとか何もかもは意味をなさなくなるんだろうけど。
台風はわたしに悲しみをつれてきた。
土砂災害はまだ起こっていないけれど、ずっと胸の内でサイレンがなっている。崩壊寸前なのに、涙をうまく誘導してあげることができない。
泣きたいのに泣けない。
くるしい。